頭のかたすみ

どっかのだれかのどうでもいいこと。

ダサリズム

 

  過ぎ去った幼さを具現化したような対象を目にするとき、どうにも具合が悪い。覚えているもの、わたしもそれをやっていた。気持ちよく、快いという認識を持って。けれども、いつしか箱を開けてみればちっとも粋じゃなかった。ダサいということだ。

  人にはそういう時期がある。ダサくてしょうのない時期。わたしは歳を重ねてはそういった時期を逸した気分になるが、生きてる限りどっかダサいまま生きるのが本当なんだろうなと思う。風が流行り廃りを変え、同じ季節でも去年と今年ではまるで良いものって違うものだ。

  お母さんから見てダサいものか実は流行の最先端だった。逆も然りだが、こんなことザラにある話で、年齢・地域・国籍・エトセトラのコミュニティがわたしたちの感性の判定基準になることが多いけれども、それさえ意味がないときがある。何が要因になるとも知れぬ。マスメディアが流行を作ってるのかもしれない。業界で示し合わせてるのかもしれない。しかし、どこでだって誰からだってカルチャーは産まれる。

  指標は世間じゃなくて、わたしが決めるもので、ダサくても納得いけばいいと思っている。

 

 

 

止まってはくれない日




  綺麗さっぱり忘れてしまうことが一番苦手で、楽しいことだって悲しいことだってかなり尾を引く。気持ちは脳のシステムの一環なんだって聞いた。だとしたらわたしのシステムはエラーを出しまくりだと思った。楽しい出来事だってその日を迎えてしまえば終わってしまうことに悲しみ、悲しいことはそれこそ人生の終わりかのように落ち込む。この頃やっと怒る日だってあるようになってきたけど、そもそもはそんな感情わたしの中にはほぼ無かったから、気弱なんだから仕方ないと思った。そういう子どもだった。
  今だって心のどこかで子どものわたしが三角座りをしてじっとしていて、わたしあれ嫌いだった、のは、まあいいんだけど、そういう寂しい気持ちにさせる。小さかった頃、大好きな夏が終わってしまうのが毎年不思議だった。今思えばあれが悲しさだったんだと思う。次の夏はもう今年とは違う夏だと知り、ずっと夏が続けばいいのにと願った。
  願いは叶うはずもなく、時を繰り返している。四季が巡る国に住んでるからだろうか、少しずつ変わってはいるのに、何も変わっていないと感じることがある。頭の一部分はきっとまだ小学2年生、小学5年生、中学3年生、そんな感じ。時間が止まってくれなかった夏を思い出すと、わたしの時間が進んでることも思い出す。不思議なんだよ。今このときだって、進んでしまえば戻れないことが。




我が家という国



  世の中には常識っていうものがあって、わたしの家にもここでしか使えない法律みたいな暗黙の了解にも似た常識がある。他人に「それ変だよ」って言われても「でもうちではこれが普通なの」って応えるようなごく普通に捻じ曲がった我が家の条例がある。それが会心の出来ならいい。未だ誰も思いつかないような良い考えならいい。
  事実そうでないものもそうであるものもある。わたしが中学生の頃まで行われていた夏休みのキャンプとか、その季節に庭で一回はしてた快晴の日の焼肉とか、他にも、普通だと受け取っていたそれらは両親の努力によって形成されていた一角だったんだなあと今更思う。気づかないままだったらきっと幸せだったけど、ずっと阿呆のまんまだった。我が家という国には悪い条例だってあるけど、多分必要なんだ。それが嫌なら他の国に国籍を移すべきで、今がそのときなんだと思った。
  バイバイ、我が国。大好きだったよ。




女性性に思う不安の山



年齢的に見ると尚早かもしれないけど、これから先は周りで結婚する人なんかも増えていくんだろうなと思ったので書いておく。

  • 少子化少子化って危機感を持っていろんなこと言うけど、女性の最重要タスクに出産子育てが当然のように入ってることに違和感。
  • 専業主婦したい人はいいかもしれないけど、仕事が好きでずっと働きたい人はどうすればいいの?
  • 専業主婦になろうとしても経済的にそうはいかない人も多い。
  • 仕事も子育ても出来るのが理想なのかもしれないけど、そんな状況が世間から意外と蔑視されているような気がするのは何故なのか。
  • 子育てがあればそりゃあ仕事に穴あけることもあるだろうけど、逆だってありえるだろうけど、少子化の現状を思えば彼女らが日本の未来の一角を担っていることは間違いない訳で。
  • だからといって仕事のみに絞って精を出せば、男性上司からのモラハラを受けたりするなんて話もネットではよく見る。女の仕事は子作りなんだからこんなところにいる必要ないんだよ的な。どうすりゃええねん。
女性ならどう生きようが、これらは絶対避けられないんだろうなあという感じがする。やだなあ。多少偏った見方をしているけど、ただ鬱憤晴らしたいだけのエントリなんでそこはご愛嬌。

以下はわたしがいつも嫌だなあと思うこと。

  • わたしの希望を聞く前から何かと「あなたもいずれ嫁に行くんだから」と一喝する母。
  • 女だったら短大くらいで十分だという前提でものを話す父。
  • 女に財力はいらないという前提での考え。そりゃ専業主婦になること確定ならいらないかもしれないが……
  • 女だからという理由で何かにつけて選択肢を狭める両親(ダブルアタック)。
  • 女は子ども好きなものという風潮(これはかなり尖った見方をしてることを認めます。ごめんなさい)。

なんかこう突き詰めると出産育児そのものに嫌気が指しているというよりそれを取り巻く環境がわたしは恐ろしいんだろうなと思う。確かに存在しているのだろうとは思うけど、女のしあわせという固定概念も怖いし。
メリットで決める人生ではないとわかってはいても、このご時世では結婚をすることは前以上にとても勇気のいることだと思うから、それも純粋に怖い。わたしが結婚出産したときのために、というよりみんな困ってるんだからどうにかしてくれよと思う。もっと突き詰めればどうにかしてくれるように働きかける活動も存在してるのかもしれないけど、今はそこはまあ。
しかし浮いた話のひとつも無いのにこんなこと考えてる自分の頭に辟易するね。ごめんなさいね。




ゆるやかな自殺


ゆるやかな自殺という単語を目にした瞬間、どうも胸に違和感があって。ゆるやかな自殺という単語使う際には無意識のうちに死を望むという背景があるけれど、わたしたちみんな長い目で見れば最期死ぬために生きている。一人違わずそうです。だったらみんなゆるやかな自殺をしているのでは。



自分さえ


小学生の頃、定年退職後再就職したおじいちゃん先生が話していたことを今でも覚えている。「まずは自分のことをやりなさい。次に家族のこと友だちのこと、周りの人のことと範囲を広げていけばいい。大人になれば、そのうち世界のことを考えられるようにもなるだろうから」。今思い出してみれば実に日本人らしい考え方だなあと思う。しかし非の打ち所がない良い考えだと、思い出しては感心する。
まだまだわたしは自分のことさえままならなくて、沢山の人の手を借りて立っている。だからまず、自分のことだ。自分さえ守ることが出来なくてどうするというのだろう。自分のことが出来たなら次、手を伸ばす。慢心が過ぎる度に思い出すことにしよう。




若者の定義

 

突然ですが、フジファブリックの若者のすべてという曲が好きです。それしか言わないのが惜しいくらいにわたしは志村正彦信者だし、もっと言えば語って満足してしまうのも惜しいから曲の寸評なんかもしないようにしてます。

今日はそんな気分ではなくて、少し語ってみようかと思います。音楽についてではなくて、この曲を聴いていたら思い浮かんだ、これからのことを。

 

 

わたしは年齢としては確かに若いんだけれど、若者は何を持ってして若者と呼ばれるのか?正直わたしはこういう定義付けや謎掛けみたいなものが大好きで、自分でも面倒くさいなと思うんだけど、ふとした折にいろいろ考えてしまう。

 

身体が若いだけが若者の定義ではないんじゃないかと最近よく思います。主観的かもしれないけど、最近のよく言われるさとり世代は何だか若者らしくないって言われるじゃないですか。それって精神的に大人びてるからじゃないのかなと思う。

不景気などの時代の流れによって、おそらくこれからのプロトタイプは“さとり世代”に決まった。さとり世代とは。リスクを避け安定を望み、高望みはしない。プライベートの外と内とを明確に分ける傾向があり、その為なら他者との交流を断つことさえ辞さない。世代感としてはこんな感じでしょうか。団塊世代・バブル世代のおじさま・おばさまは後者の部分がより気に入らないんでしょうが、本当に危ないのは前者なんじゃないのかなと思う。

 

最初に挙げたさとり世代の若者らしくなさの核になるのは、欲の無さ。これはよく言われてることだと思うけど、その世代に近いわたしはさとり世代の生き方は賢いし、悪いことでは無いじゃないかと思ってた。自分の人生をどういう風に生きたって勝手じゃない。上の世代のツケを払っていくのは自分たちなんだから。そんなようなことさえ思ってた。でも欲が無いって危険な傾向じゃないですか?たとえば市場的に見ても、政治的に見ても。俗世に生きるものなら欲を持ってしかるべきじゃないのかなあ。欲っていうのは意思だから。

 

この間、本当の意味の大人なんてどこにもいないって書いたばかりだけど、社会人になることがどんなに大きな節目を迎えても、急激に大人になる必要はないのかなと思う。どんな節目にもそれに伴う義務はくっついてくるものだけど、節目を迎えたからって急に変われるわけじゃありません。

さとり世代の傾向だって長い目で見れば日本の大きな問題にもなるかもしれないし、見過ごしたい訳でもないんですが、今回言いたいのはそういうことじゃないので。ゆとり世代だってさとり世代だって、育てたのは上の世代ですよ。最近の若者は〜なんていう常套句は日本の古典にもあるくらいのお小言なので、おそらく気にする必要はないです。どんな人間にもどの世代にも一長一短あるものだし。

 

 

若者が若者たる所以、定義は、若く何も知らないことによる愚直さなのかなと思う。それが無いと若者らしくないと言われるんだから、おそらく核にあるものです。もちろんこれが長所になるか短所になるかは見方次第かな。

さとり世代が悪いって話でも社会が悪いって話でも無くて、誰しも自分の今の時世でどこまで自分を捨てずにやれるのかが問題なんだろうなってことで。遥か昔から、時代の上に人があるのではなくて人の上に時代が出来るものなんだろうと、ぼんやり思ってて。史実話なんかだと逆に見る話も好きだし、時代に飲み込まれる人たちがいるのも本当だとは思うけど。

 

何にせよ、いつの時代だって時代に逆らうのも時代を創るのも若者の得意分野には違いないよね。擦りむいても傷ついても、どの世代より癒えるのが早いはずだから。そう思うと、これからが楽しみです。

いくらさとってもいいけど、趣味でも仕事でも恋愛でもなんでもいいから好き勝手やったらいいのかなと思う。それがきっと若者の特権。